ピアノの詩人フレデリック ショパン と ピアノ
子犬のワルツ,別れの曲,幻想即興曲などで有名な ピアノの詩人ショパンが,病弱で小柄であったことを知る人は少ない。
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2. ショパンコンクール 歴代優勝者
『 ショパン国際ピアノコンクール 』は,ポーランドの首都ワルシャワで,5年に一度の周期で行われ,一次予選から本選まで全てショパンの曲を演奏しなければならず,ほかのコンクールと比べると水準の高さでは群を抜いている。

参加者が多く,全日程は,2週間に渡り,200名を超える応募の中から書類選考にパスして一次予選に挑むのは 140名前後だが,一次予選は,連日 11時過ぎまで演奏が続くことがあって,二次予選に通過できるのが 40名程で,三次予選と進むうちに振るいにかけられ本選は 6名となり,その 6名でコンチェルトを演奏して順位が決まり,受賞者の発表となる。



▼歴代の優勝者

第 1回 オボーリン レフ

第 2回 アレクサンドル ウニンスキー

第 3回 ヤコブ ザク

第 4回 ハリーナ チェルニー = ステファンスカ

第 5回 アダム ハラシェヴィッチ

第 6回 マウリッツィオ ポリーニ

第 7回 マルタ アルゲリッチ

第 8回 ギャリック オールソン

第 9回 クリスャン ツィメルマン

第10回 ダン タイ ソン

第11回 スタニスラフ ブーニン

第12回 優勝者なし

第13回 優勝者なし

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【2009/01/19 00:00】 | ショパン国際ピアノコンクール
8. ショパンとその周辺
ショパンが美男子だったためか,色々な女性との愛の遍歴や伝説も加えて多く語られているが,ショパンは愛情が作曲の活力となる典型例で,特に 9年間におよんだ女流文学家の『 ジョルジュ サンド 』との交際や劇的な破局の間には『 幻想曲 』,『 幻想ポロネーズ 』,『 英雄ポロネーズ 』,『 バラード第 4番 』,『 24の前奏曲集 』,『 舟歌 』などの多くの作品が生まれた。

ショパンは 27歳のときに『 別れのワルツ 』と呼ばれるワルツをポーランド人貴族ヴォジンスキ伯爵家の『 マリア 』に献呈し,周辺には内緒で求婚したが,その後ジョルジュ サンドをリストの愛人の『 マリ ダグー伯爵夫人 』のサロンで紹介され,翌年にはヴォジンスキ家からマリアとの婚約が破棄された。

翌々年からショパンとジョルジュ サンドとの交際が始まり,半年間マジョルカ島に結核療養で滞在したが悪化し,冬はパリ,夏はノアンにあるサンドの別荘で,1839年から 1847年まで暮らしたが,1847年の 36歳のときにジョルジュ サンドと別れることになった。

1歳年下でパリで活躍した大ピアニストの『 リスト 』と違いショパンは病弱だったことなどで,大きなホールでの演奏をほとんどしなかったが,生活のための必要性で貴族の婦人が主催するサロンでの演奏や貴族の子弟へのピアノの指導をしたが,それはショパンにとって心落ち着ける居場所でもあった。

ショパンとジョルジュ サンドと二人を一枚に書かいた『 ドラクロワ 』の絵は,ショパンたちの交際の破局から二枚に分割され,ショパンの部分は『 ルーヴル美術館 』,サンドの部分は『 コペンハーゲン 』の美術館に所蔵された。

1848年のパリでの最後の演奏会,ロンドンでの滞在,ヴィクトリア女王の御前演奏などのあと,39歳の 1849年 10月 17日に『 パリで永眠 』。『 ペール ラシェーズ墓地 』に埋葬され,ショパンの意向により『 心臓 』だけは,姉によってポーランドに持ち帰られた。

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【2008/08/08 00:00】 | ショパン
7. ピアノのエチケット
ピアノは音を楽しむいわば娯楽の道具で,ピアノの音の楽しみ方には自分で弾くということも,弾いて音を聴くということもあり,音を出すということは,まわりの住人にも聞こえるので,それなりに暗黙のルールを守らなければならず,それがピアノを楽しむためのエチケットです。

自宅のまわりに民家がないという人は滅多ににいるものではなく,近所の方々との円満な生活のためにも近所づきあいというものがあるので,この暗黙のルールはできる限り守ったほうが良く,曲を弾いているのだから,うるさいなんて思わないだろうなんて思っていてはいけません。

自分が近所の家からピアノの音色が聞こえてくると,思わず耳をすましてそのピアノの演奏者が間違えたり,つまずいたりしても寛大に聞いていられるとしても,雑音にしか聞こえないと思われる人も中にはいますので,完璧に弾くことが出来ても,『 うるさいなぁ 』と思う人がいるかもしれないのです。

ピアノを弾く時は朝早くに弾かないようにするとか,夜遅くに弾かないようにするとか,時間帯に気を配り,せっかくぐっすり眠っているのに,いきなりショパンの革命のエチュードなど,情熱的な音楽が響いたらぐっすり眠っている人を起こしてしまうことにもなります。

だからと言って小さい音の曲なら良いと言っているわけではありませんが,なるべく隣家とは離れた部屋にピアノを置く心配りをするなどして,エチケットを守るように心がけたいものです。

【2008/08/07 00:00】 | ショパン
6. ショパンの健康とその周辺 - ジョルジュ サンド -
ショパンはジョルジュ サンドをリストの紹介で 1836年に知るが,翌年の 1837年にパリでインフルエンザが大流行し,その年の 2月にショパンは結核ではないが高熱,吐血,喀血で数週間床につくことになり,医師のゴーベルトの助言で,ジョルジュ サンドの看護のもと温暖な気候のマジョルカ島に移った。

マジョルカ島でショパンは伝染病と誤解され,家主と島民に家の立ち退き要求をされてヴァルデモーザに旅立ったが,症状は 1839年 1月まで続いたが,ジョルジュ サンドは当時のことを『 ショパンにとって,脂っこい食品は不消化で下痢の原因になるので,体にあったものを見つけるのに大変苦労する 』と書き残している。

1840年からショパンの病状はより悪化し,体重は約 44kgぐらいまで痩せ,ひどい咳と痛みの症状が,1843年の冬から 1844年の春まで続き,サンドと暮らしていたこの時期はショパンの作曲活動が最も充実していた時期で,1847年の冬にも同じような症状が続いてサンドと離別することにもなった時期でもある。

ショパンは病の悪化の中で,一番必要とするジョルジュ サンドと離別しなければならないことになり,1848年ショパンは病気のまま,英国へ旅立つことになって,4月にはエディンバラを訪問できるくらい気分が良くなった時期でもあったが,1848年 11月には再び悪化し,パリに戻った。

【2008/08/06 00:00】 | ショパン
5. ショパンの健康とその周辺 - 家族 -
ショパンの父親のニコラ ショパンは,フランス人で呼吸器疾患を繰り返し,79歳で肺と心臓病で没し,母親のユスティナは,ポーランド人で生涯健康で,77歳で没した。

ショパンには,3人の姉妹があって,姉のルドヴィカは,再発性の呼吸器感染症に生涯悩まされながら,47歳で没し,妹のイサベラは,生涯健康で,70歳で没したが,一番歳下のエミリアは,11歳から体重減少,息切れ,肺炎,喘息,吐血を繰り返す虚弱児で,消化管出血で 14歳で没した。

ショパンは,10歳代から体重減少,呼吸器症状,下痢で苦しみ,16歳のときと 1830年の 20歳の時に半年間ほど患ったが,その時期に 1年かかるとされていたポーランドからパリへと旅立ち,1831年と 1835年にも患っている。

【2008/08/05 00:00】 | ショパンの家族の病
4. グランドピアノとアップライトピアノ
ピアノと言うと,本来はグランドピアノを指すが,あまり広いスペースをピアノにとることができない学校や幼稚園などでは,アップライトピアノが置かれることが多いが,グランドピアノは,豊かな響きや,多彩な音色,弾くときのタッチ,幅広いダイナミックレンジなどすべてにおいて表現力が豊かである。

ショパンの作曲したピアノ曲などを弾きこなすには,アップライトピアノではもの足りなく感じ,グランドピアノの特長は,ピアニッシモからフォルテッシモまで,きちんと響かせることができ,音がなめらかで伸びも良く,ほかにも音程感が良くて音色に表情をつけることができ,さらにバランスが良くムラがないため,トリルなどの細かい指の動きがスムーズにできるなどの特長がある。

このような特長が融合し,より自分の理想に近い音色を生み出すことができるため,グランドピアノで弾いたほうがアップライトピアノで弾くよりも,より自分の理想に近い,完成度の高い曲を作ることができるが,アップライトピアノは,グランドピアノほどの大きさがないため,狭いスペースにピアノを置きたいときや狭い会場で声楽や器楽の伴奏などで弾くときには,アップライトピアノのスマートな大きさがちょうど良いこともある。

そのため,学校や幼稚園などの施設では広く使われているようで,ほかにも,一般家庭用のレッスンに使うためや,もちろん趣味で使うためになど広く愛用されている。

【2008/08/04 00:00】 | グランドピアノ
3. ショパンの生涯
ショパンは生涯の前半をポーランドで,残りの後半をフランスで送ったが,室内楽曲を 4曲,オーケストラつきのピアノ曲を 6曲,歌曲を 19曲を独奏曲以外に作曲したが,ショパンの最初の作品は『 ポロネーズ ト短調 』 で,最後の作品が『 マズルカ 作品 68-4 』を作曲し,心は常にポーランドにあって生涯ポーランドの民族音楽のリズムを使った作品を書き続けった。

作曲の勉強をワルシャワ音楽院でひととおり終え,ショパンはウィーンに滞在し 21歳のときパリに向かったが,故郷のワルシャワがロシアに占領されたという知らせが旅の途中に届いて深く悲しみ,ショパンは二度とポーランドに帰ることはなかった。

活動の殆どをピアノの作品に捧げ,39歳の 1849年 10月 17日に短い生涯を閉じたショパンは,フランスに生まれポーランドで生涯を送った父のニコラスとは反対に,ポーランド人のショパンは生涯の前半をポーランドで,残りをフランスで送った。

ショパンは,パリでピアニストとして,作曲家として活躍したが,肖像が『 紙幣 』になったほど母国ポーランドでは国民的な作曲家で,現在ポーランドで開催されている『 ショパン国際ピアノコンクール 』は,ポーランドの人々にとってはオリンピックやワールドカップと同様の一大イヴェントになっている。

【2008/08/03 00:00】 | ショパン
1. フレデリック フランソワ ショパン
- Frederic Francois Chopin -

1810年2月22日,ワルシャワ郊外のジェラゾヴァ ヴォラでピアノの詩人,ポーランド名がフリデリク フランチシェク ショペンの『 フレデリック フランソワ ショパン 』は,フランス人の父とポーランド人の母,3人姉妹のもとに唯一の男子として生まれた。

ショパンは,両親がピアノやヴァイオリンを演奏する音楽的な家庭で,母と姉からピアノの手ほどきを受け,ヨーロッパではピアニストとして,また作曲家として有名で,美しい旋律,半音階的な和声法,様々な形式などでピアノの表現の技法を拡大し,それまでになかったピアノ音楽の新しい世界を築いた偉大な作曲家であった。

ショパンは 1816年の 6歳のときに最初の先生の『 ジヴニー 』に師事し,多くのバッハの作品に触れ,翌年 1817年の 7歳のときに最初の作品の『 ポロネーズ 』を作曲。8歳のときには演奏会の出演で神童として貴族のサロンや宮殿に招かれ,パリに旅立つまでショパンはワルシャワで暮らした。
【2008/08/01 00:00】 | ショパン
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